僕はテストエバンジェリストを最近まで自称していた。今でも、仕事の一部はエバンジェリングだ。国内外から日本の現場に役立つパラダイムや概念、方法論、技法、ツールを紹介する仕事である。学者というのは、ある意味エバンジェリストだ。確信犯的に輸入商社的研究スタイルを採っている人もいるし、オリジナルな研究のためのサーベイが実はエバンジェリングだったりする。
エバンジェリストというのは、とても聞こえの良い職種だ。しかし僕らは、エバンジェリストの立場である限り、新たなパラダイムや概念、方法論、技法、ツールの創造はあまり行わない。福音を伝えるのがミッションだからだ。これは、発展途上産業にとって、とても意味のある仕事である。
エバンジェリストがどこかの組織に属しており、その組織の都合によって福音をバラまいている場合、話は簡単である。どんな福音を伝えればよいかは決まっており、福音を創造した人もそれを許可しているからだ。そして、福音を聞いている人も、エバンジェリストが創造した福音で無いことを十分に理解している。
しかし自称エバンジェリストは違う。福音を聞いている人は、他の人が創造した福音を伝道しているのか、自分で創造した福音を分け与えているのかが、あまりよく分からないからだ。未開の地に行って伝道した結果、神父そのものが神だと思われるようなものだろうか。
一般に、オリジネイターの評価は高い。創造に対するリスペクトが上乗せされるからだ。一方、エバンジェリストは(その役割において)オリジネイターではない。しかしエバンジェリングそのものには、オリジネイターだと誤解されるリスクがある。
このリスクを分かりやすく言うと、パクリである。他の人が考えたことを、さも自分が考えたように、もしくは創造者の名前を出さないことで暗黙的に自分のアイデアのように話すわけだ。だから知的所有権という制度があるのだが、全てに法の網がかけられるわけではない。だからアカデミックな世界では引用というマナーがある(査読可能性の確保が第一義だが)のだ。
しかしコンサルタントやエンジニアのような、アカデミックな素養を積む必要が必ずしも無い職業の場合、そのマナーを持っていないことがある。例えばセミナー資料を作る際などに、さも自分がオリジネイターのように書いてしまうわけだ。ただこれは、その事項が周知の事実だとして書いた場合も同じような誤解を生むから始末が悪い。
実は昨日も、あるエンジニアさんからそんなような相談を受けた。JSTQBのシラバスの一部をセミナー資料に引用したいから許可をくれというのだ。もちろん誰かから指摘を受けて反省の色を見せながら来たのだが、何とも返答に困った。彼らがJSTQBに金銭的損害を与えるようなら、ASTERとして法的手段に訴えなければならない。しかしシラバスは公開されている資料であるし、元々ISTQBのシラバスの翻訳であるし、何よりもそもそもJSTQBというのは皆にテスト技術の勉強を促す仕組みであって儲けるための仕組みではない。だとすれば、色々なところで引用してもらうのは喜んでこちらからお願いすべきである。
なので、ASTERの理事長およびJSTQBのステアリング委員長としてではなく、全く個人的な意見として意見を言っておいた。セミナーの講師というエバンジェリストにとって、パクリは甘美な罠である。自分たちがほとんど知的リソースを投下せずに、オリジネイタープレミアムを受け取ることができるからだ。しかし、自分たちのレベルが上がれば上がるほど付き合う顧客のレベルを上げないといけないのだが、レベルの高い顧客はそのパクリ行為を見抜き、付き合ってくれなくなる。そうすると、自分たちの知的リソースを「消費」するだけの顧客としか付き合えず、仕事をすることで自分たちの知的リソースを「蓄積」できるような顧客とは付き合えない。また知的リソースを獲得もしくは洗練するために必要な外部コミュニティとの付き合いも、パクリがバレるとできなくなる。そうすると、コンサルタントやエンジニアのような知的職業はジリ貧になり、単なる顧客の手足の域を出なくなる。そこまでのリスクを冒す必要があるのだろうか。一つ一つ丁寧に引用すればよいだけなのに。
とまぁ、偉そうに述べたが、気をつけてはいるものの、僕も気がつかないうちにパクリをしていると思う。最近はエバンジェリストを主な職業とせず、オリジネイターやビジョナリストになりたいと思っているが、まだまだエバンジェリングも必要である。偉そうに説教を垂れたのだから、自分でも気をつけたいと思う。もし僕が何かをパクッっていたら、すぐに知らせてくださいませ。
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