2007-07-05

批判される権利

最近、縛られているような気が時々する。テストについて専門家がほとんどいない状況で色々とアドバルーンを上げたせいで、なんだか実力以上に権威だと思っている人がいるようだ。こんなことを書くのは口はばったいのでイヤなのだが、ここのところ何人かから言われたので、事実なんだろうなぁと思う。

そりゃ僕も好きなアーティストや作家がいたりするので、自分のやってきたことに対して、何というかその憧れのような感情を持ってもらうことは、別にイヤではない。僕だって、画伯(注:西村しのぶ)のサイン会があった時に、整理券がもらえなかったのに覗きに行ったもの。そういう感情があることは理解するし、自分にもたくさんある。

でも、そのことと、僕の発言を絶対視することは違うと思う。違っていてほしい。最近swtest-mlに投稿しても、あまりレスがつかなくなった。メールが長いからか。文体が脂っこいからか。いや、多分、違うと思う。これは、「批判される権利」を奪われたのだ。

批判される権利というのは、誰しもが生まれながらにして持つ知的な基本的人権である。我々人間が学び、考え、成長していく過程において、批判されることはとても有益、いや必須である。批判されなければ、自分の考えは成長していかず、結果として茂木健一郎言うところのアハ体験も得られない。批判される権利が奪われるというのは、激烈な知的快感を奪われることと同義なのだ。

学生だった頃、研究室で研究がうまく進まず悩んでいると、僕の恩師が通りかかり、「にしくん、批判される側になれよ。世の中の8割以上の人は、批判されるものを創ることすらできないんだ。君は、それを創る側の人間なんだよ。」と言ったのを今でも思い出す。今思うと先生はその頃、多分、自分の所属する学会にパラダイムシフトを起こすべく、守旧派から猛烈な批判を受けていたはずだ。それまで、批判される人はダサく、バカだと思っていた。でも今は、批判されうるものを創りだし、甘んじて批判を受ける人間でありたい。一生、そうでありたい。

だから、批判される権利を奪われるというのは、非常に悲しいのだ。もしかしたら批判されうるものを創りだしていないのかもしれない。だとすれば、もっと悲しい。いつもビジョナリーにクリエイティブでなくてはならない。頑張って、もっと批判されるものを創っていこう。

0 件のコメント: