国立大学法人にいると、しばしば官僚組織との闘いになる。国立大学というのは基本的に、我々教官と事務方の2者で構成されている(技官さんもいらっしゃいますけどね)。彼ら事務方は元々公務員だし、今でも公務員気分の人が多い。自分の組織が赤字になることの恐怖も知らないし、M&Aされる可能性もリアルに想像できないだろう。
例えば、本来予算で支払うべき支出が支払えない、過去の実績が無いので客先への依頼状が発行できないなど、たった5年しか大学にいないのに、色々とすったもんだしてきた。でもまぁ5年もいると、こちらも闘い方を覚えてくる。
一番スカな闘い方は、こちらがヒートアップした状態であるべき論を振りかざし、相手の官僚的姿勢を罵ることだ。これは別に、相手が官僚組織で無くったって上手くいくわけがない。でも自分が昔やっていたのは、この闘い方。そして敗れ去り、捨て台詞を吐くわけだ。
もう少しマシになると、ルールの解釈について議論を始めるようになる。ここにこう書いてあるからOKなんじゃないんですか、それはどこに書いてあるんですか、という感じ。しかしこの闘い方も大概は上手くいかない。水掛け論になるからだ。
ここで発想を変えてみよう。向こうは向こうで、仕事を円滑に進めたいし、我々現場の役に立ちたいと思っている。下っ端だとそう思っていないような言い方をするので腹が立つが、そこはガマン。まずこちらから相手を信じる。
その仮定に立つと、向こうが何故官僚的態度を取るかが見えてくる。彼らに与えられているのは、権限というよりも責任なのだ。この責任というのはポジティブな意味、すなわち責任感といった単語で表されるような意味ではなく、ミスしたから責任取りますのようなネガディブな意味である。そうすると、何事も自分が責任を取らないように判断をするようになる。自己防衛本能だ。しかも彼らは、彼ら自身に関して言うならば、現場に優しい判断をしても全く利得が増えない。つまりゼロ利得とプラスのリスクだ。その構図では、ぜったいに官僚的判断を改めることはない。現場に優しい判断をすると、現場はプラスの利得とゼロのリスク。これは、ゼロサムゲームだ。
ゼロサムゲームで交渉を続ける限り、どちらかが折れるしかない。最終的には、お金を握っている方が勝つ。もしくは、より権力に近い方が勝つ。いずれにせよ、どちらかが損をする。
であるならば、この構図をゼロサムゲームで無くせばよい。利得を得る人がリスクも背負うようにすればよい。すなわち、現場が得をする場合は現場がリスクを背負うようにする。例えば何かを支出してもらう場合は、その支出の正当性について現場が責任を背負うような文書を書いて捺印し提出するとか。そうすれば向こうは、ゼロリスクだ。しかも現場に優しい判断をしたので、気分も良くなるだろう。プラス利得だ。対して我々は、プラス利得にプラスリスク。合計すると、ノンゼロサムゲームになる。
このゼロサムからノンゼロサムへの、問題の構図の転換というのは、実はソフトウェアの改善の現場でも見られる。スタッフと現場が対立して改善が進まない組織というのは、どこかがゼロサムになっていて、そこがボトルネックになっていると思う。だからコンサルタントは、ゼロサムになっているボトルネックを分析して、そこをノンゼロサムに変えるのが仕事なのだ。
ゼロサムからノンゼロサムへの転換業務は、別に何かしらの技術が必要なわけではない。鉄に磁石を近づけると、てんでばらばらな方向を向いていた内部の磁性体が同じ方向を向くようになるがごとく、ゼロサムで対立している現場とスタッフを同じ方向に向かせる思想が必要なのだ。しばしばその思想は、皆の利得をグルグル回るスパイラルになっていたりするのだが。
よく言うことだが、経験だけのコンサルタントは3流だ。一般化した技術を知っているだけのコンサルタントも、せいぜい2流にすぎない。ゼロサムからノンゼロサムへの転換など、組織全体を同じ方向に向けられるコンサルタントこそ1流と呼ばれるべきだ。そして、その思想がスパイラルになっているために、そのコンサルタントがそこにいるだけで組織が良くなっていく思想やエネルギーを持つコンサルタントは、超1流だ。
さて、僕はいつになったら超1流のコンサルタントになれるのかしらね。
0 件のコメント:
コメントを投稿