夏の前半の休暇中。今日は毎年恒例の神宮外苑花火大会に行った。小さい頃からヤクルトファンだったり、チャリで来れる距離に住んでいたりしたので、花火といえば神宮だ。実家にいた頃は家の前から見えたしね。
神宮の魅力は、なんと言ってもその迫力に尽きる。隅田川や東京湾に比べて(多分)打ち上げの高さが低いせいもあるし、すぐ近くまで寄れるので、音圧を顔で感じることができる。特に神宮球場で見ると、ド迫力だ。うちのチビが1歳になってすぐに連れてきたら、泣いてしまってすぐに撤退せざるを得なかったくらいである。
昔は路上の穴場を探して見ていたのだが、もう年なので最近はチケットを買うことにしている。神宮球場はチビが泣き出すリスクがあるので、昨年から秩父宮ラグビー場から見ているのだが、音圧の具合と花火の大きさがちょうどよい。指定席だと正面では無く右を向かなくてはならないので首が痛くなるが、まぁご愛敬だろう。花火前のライブや仕掛け花火に興味がない向きにはオススメだ。それに、クルマで来て近くに駐車しようとすると、秩父宮が便利だ。
そんなわけで今年も行ってきたのだが、何というか、商業化され過ぎていてイマイチだった。もちろん花火は大きくて良かったし、花火前のライブは地味で気にならなかったのだが、他がいかん。
一つには、スポンサーの表示だ。DHCなどは大枚はたいているのだろうが、花火が消えたすぐ直後に電光掲示板で煌々とスポンサー名を表示するものだから、余韻も何もあったものじゃない。花火の魅力の一つはもちろん色と光の競演なわけだが、もう一つの魅力は、消えた後の余韻である。日本古来のわびさびというか、無常観というか、去りゆく夏を懐かしむというか、そういった気持ちを花火の消えた後の数秒の静寂と暗闇で感じ取ることで情緒の深い人間になると思う。しかし花火が消えたコンマ何秒で電光掲示板が光りナレーションが流れるようでは、情緒のかけらも育たない。実際、会場からは失笑が漏れていた。あれでは、せっかくのスポンサーフィーも逆効果だ。選挙運動のようでセンスのかけらも無い。
仕掛け花火も酷い。まぁ僕は仕掛け花火そのものがそんなに好きじゃないというのもあるのだが、スポンサーの名前を仕掛け花火で見せられて誰が嬉しいのだろうかと疑問に思う。ナイアガラの滝で十分じゃないのか。あれだけナレーションやら団扇やら電光掲示板やらでDHCと刷り込まれているのだから、上乗せして仕掛け花火で見せられるのは、もはやブラックジョークに他ならない。もしかしたら、アンチDHCなのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。結果として我々に与えられたのは、DHCというのは、売らんかなの商業主義でセンスのかけらも無いメーカーだというイメージだけだ。まぁCMなんかを見てもそうなので、それで良いのかもしれないけどね。
もう一つ酷かったのは、ハッスルだ。花火の本編が終わってアンコールまでの間にハッスル軍団が出てくるのは良い。インリン様の熱演もあって、結構面白い。しかし肝心のアンコールがどうも短く、その後にハッスルの試合をやってしまうのは興ざめだ。アンコールまでの間に試合をやれば、ほとんどの人が試合を見てハッスルの面白さを感じ取ったかもしれないのにねぇ。どうも短いようなアンコール花火の直後にハッスルの試合が始まり、しかもアンコールの最後が地味だったのもあって、観客は花火が終わってしまった不満をハッスルに対する感想と誤認したまま帰ってしまうのだろう。もともとハッスルに興味があった人は良いだろうが、マーケットを広げるという戦略としては失敗だったと思う。
花火そのものは、1万発ということで例年にも増して良かったのだから、来年はもうちょっと運営を考えてもらいたいものだ。広告というものを、観客の満足度とのトレードオフもしくはゼロサムと考えるから、こんな運営になるのだ。確かにCMを減らして本編を増やせば観客の満足度は上がるからゼロサムだと考えがちなのだが、そんなことは無い。ゼロサムのように思われるものをノンゼロサムにするのが、広告屋の腕だと思うんだけどね。JaSSTは、聴衆とスポンサーの価値をノンゼロサムにしたいものだ。
1 件のコメント:
同感です。スポンサー料を払った分のもとを取りたいという気持ちはわからなくもないですが、入場者もチケット料を払っているのですから、貴重な時間とお金を使ってしつこく広告を見せつけられるのは不快ですよね。もう少し見る側への配慮が欲しいものです。
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